教誨師(きょうかいし)という存在

──「悪」を知るということについて

「教誨師(きょうかいし)」という言葉を、どれくらいの人が知っているだろうか。

AIの解説によれば、
教誨師とは
刑務所などの矯正施設で受刑者に対して、宗教に基づいた教えを説き、心の安寧や更生を助ける民間の宗教家

とある。

どこか遠い世界の話のようでいて、
けれど実は、人が生きることの核心に深く関わる存在だと、私は感じている。

目次

網走監獄で知った「人」の存在

網走監獄博物館を訪れたとき、
当時の網走にも教誨師がいたことを知った。

極寒の地・網走。
厳しい労働環境と、過酷な自然条件の中で、

罪を犯した人々と向き合い続けた人たちがいた。
ただ罰を与えるのではなく、
ただ反省を促すのでもなく、

その人が「再び社会に戻る」という未来を信じ、人生をかけて関わった存在。

歴史の資料の中に記された教誨師の姿から、
私は「人を見捨てない」という覚悟のようなものを感じた。

現代にも続く教誨師の仕事

教誨師は、過去の制度ではない。
現代においても、僧侶や牧師といった宗教者が、同じような活動を続けている。

師匠も、そして夢源樹でお世話になった久保先生も、
そうした活動をされていたと聞いた。

誰にも注目されず、成果が数字で見えるわけでもなく、けれど確かに、人の人生に深く関わる仕事。
それは、強い信念と、静かな覚悟がなければ続けられない。

高校生の頃からの、なぜか消えなかった関心

不思議なことに、私は高校生くらいの頃から、教誨師という存在に強い関心を持っていた。

どうしてそんなことに興味を持ったのか、当時の自分にも、はっきりした理由はなかった。

ただ、

「どうしたら教誨師になれるのだろう」
という疑問が、ずっと心のどこかにあった。

久保先生にそのことを伺ったとき、返ってきた答えは、現実的なものだった。
「現代では、きちんと“宗教家”にならないと、教誨師として要請されることはない」

覚悟も、立場も、責任も必要だということ。
中途半端な関心では、足を踏み入れてはいけない世界なのだと感じた。

「罪」と「裁く」という言葉

「罪」という言葉を、

現実的に考えれば、そこには必ず「裁く」という行為が伴う。
社会の秩序を守るために、罪は裁かれなければならない。

それは、確かに必要なことだ。
けれど一方で、「裁く」という視点だけで人を見続けたとき、
その人の内側にあるものは、誰が見つめるのだろうか。

更生とは、罰を終えたあとに始まるものだ。
そしてその道は、決して平坦ではない。

「悪」を知らない者は、「悪」と対峙できない

気学を学んだときに聞いた言葉が、今も心に残っている。

「悪を知らない者は、悪と対峙することはできない」
それは、自分は善で、相手は悪だ、

という単純な話ではない。

人の中には、誰にでも「闇」があり、弱さや、醜さや、見たくない感情が存在している。
それを知らずに、ただ正しさだけを掲げても、本当の意味で人と向き合うことはできない。

自分の中の「悪」と共に生きる

私には、自分の中に「悪」がある。
そう思っている。

それは、罪を犯したという意味ではない。
けれど、妬み、怒り、恐れ、
どうしようもない感情を、確かに抱えて生きてきた。

だからこそ、今、たくさんの方の話を、ただ否定せずに聞かせていただけているのだと思う。
人は、自分が見たことのない闇を、他人の中に見続けることはできない。

教誨師という存在が示すもの

教誨師とは、「正しさ」を教える人ではないのかもしれない。

罪を犯した人の中に残っている、わずかな光や、まだ消えきらない希望を、信じ続ける人。

人間の可能性を、最後まで手放さない存在。
それは、とても重く、とても孤独な役割だ。

「聞く」という行為の重さ

誰かの話を聞く、ということ。
それは、思っている以上に重い。

相手の人生の一部を、一瞬でも引き受けるということだからだ。

教誨師も、占い師も、人の話を聞く仕事に就く者は、その覚悟から逃げてはいけない。
私は、その入り口に立たせてもらっているだけなのかもしれない。

それでも、人は人に救われる

制度や法律だけでは、人は立ち直れない。
最後に人を支えるのは、やはり、人だ。

教誨師という存在を通して、私は改めてそう感じている。

人の「悪」を知り、それでもなお、人を信じようとすること。
それは、とても人間的で、とても尊い営みだ。

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