滝修行と人生の節目──20年の体験から見えてきたこと

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滝に打たれる理由

──20年という時間が教えてくれたこと

占いを学び始めた頃、師匠から言われた言葉がある。

「滝修行がありますよ」。
正直、そのときは「?」だった。

もう、生きて生活しているだけで十分修行ではないか、と思ったからだ。
仕事、人間関係、将来への不安。

毎日をこなすだけで精一杯なのに、そこにさらに修行?
当時の私は、そう感じていた。

それから約20年。
気がつけば、ほぼ毎年のように滝に打たれてきた。

そして今回は、久しぶりの滝だった。

「滝は御供養」という言葉

師匠は一貫して、こう言っている。

「滝は御供養だ」。
若い頃は、その言葉の意味がよく分からなかった。

修行や鍛錬の一種だと思っていたし、
どこか精神論のようにも聞こえていた。

けれど、この20年の間に、祖父母と父、
合わせて4人を看取る経験をした。

そのとき、ふと、師匠の言葉が胸に降りてきた。
「ああ、こういうことだったのか」と。

滝に打たれるという行為は、自分を清めるためだけのものではない。
命を受け取り、命を見送り、その流れの中に自分がいることを、
身体ごと受け取る行為なのだと。

この世に「運ばれてくる」理由

この世で、たったひとりの自分が、

ここに運ばれ、滝に打たれることができているという事実。
その背景には、数えきれない命の連なりがある。

偶然のようで、偶然ではない。
簡単に語れるような理由ではない。

その中で、自分が担っている「役割」。
それは大げさな使命というより、
与えられてきた流れの中で、

自然に立たされている位置なのだと思う。
師匠がよく使う言葉に、「布石」という言葉がある。

今この瞬間に意味が分からなくても、
後になって「ああ、あれがあったからか」とつながる出来事。
人生は、そうした布石の連続なのだと、滝の中であらためて感じた。

「調和」は、まだ途中

自分の中にある「調和」。

それも、完成したものではない。
今もなお、途中だ。

いいこともあれば、わるいこともある。
想像をはるかに超える出来事は、いつだって突然やってくる。

それでも、起きることには意味がある。
意味が分かるのは、たいていずっと後になってからだ。

昔の自分と、今の自分

私はもともと、「運」という言葉が好きではなかった。
おみくじを引くのも、どこか抵抗があった。

年齢を重ねても、「おばさん」になっても、
きちんと稼げる仕事がしたい。

でも、結婚や出産も経験したい。
大事な人を、大事にしたい。
今思えば、とても欲張りだ。

お化けも霊現象も怖くて、
一人で電気を消して眠ることもできなかった。

そんな自分が、今、滝に打たれている。
人生は本当に分からない。

縦軸と横軸、そして生命のつながり

今年の滝では、参加していた新しい弟子や受講生の方たちにも、多くの「奇跡」が起きていたように感じる。

縦軸と横軸。
胎蔵界と金剛界。

難しい言葉かもしれないけれど、

簡単に言えば、命が時間を超えてつながっていく軸と、
今この現実を生きる軸。

その両方を、身体で感じられる場が、滝なのだと思う。

自分は、その「人間の生命のつながり」の中に、確かに存在している。
そして、その先も続いていく。

宗教ではなく、「今」を生きるということ

これは、宗教や宗派の話ではない。
何かを信じなければならない、という話でもない。

ただ、

この時代を、
この身体で、

この人生を生きているという事実。

20年前に見た滝と、今目の前にある滝。
違うようで、変わらない。
変わらないようで、確実に違う。

その両方を抱えながら、「まぢかー‼️」と思い、
そして、やっぱり感謝している。

感謝✨
感謝✨✨

それが、今の正直な気持ちだ。

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